お知らせ

雨の日が好きなのはなぜだろう?

快晴のスッカーン!と晴れた日も素敵ではあるけれど、私はなぜか雨の日が嫌いではない。

今日は雨だった。
晴れた日を、いい状態だとして、そのバランス的に、雨を欲しているのか?あるいは、単純に良くない状態のときは、何かを蓄えている感じが好きなのかはわからない。

私は、今よりも若いころを思い出すとき、それは誰から見てもしあわせ、という状態のことではなくて、むしろ自分が大変で(周りから見た目は関係なくて。)、一生懸命に乗り越えようとしていたときを思い出す。

たとえば、受験で言うなら、合格した瞬間はそれは嬉しいけれど、それよりも、努力していた過程を楽しく思い出しているようなところがある。
そんなかつての自分に、大丈夫。安心して努力したらいいよ!
と言ってやりたくなる。

数か月前、大変な試験勉強をしていた頃のことを、楽しかった!と言って、あの頃に戻りたい、などと言い出し、呆れた人が数人。
ええ加減しろよー、という声が聞こえそうな発言だった。

自分でも呆れられるのをおかしいとも思えず、自分の方がおかしいだろうことは容易にわかった。

バランスを取るように、いいことばかり続くと、怖くなる質である。
努力する対象がなくなると苦しくなる。

それも、ちょっと大きめの負荷を掛けないと、私は自分が生きている感じがしないのかもしれない。
しばらくは、夏期講習で忙しいのだけれど、それとて慣れてきているので、きちんと時間を取って、自分自身の勉強もできるような態勢にしておきたいと思っている。

今朝は朝活上市さんで、ちょっとお話しさせていただいた。
井原西鶴について、そして、その代表作として知られている、『好色五人女』について。
印刷技術の問題や、識字率、人間の本質とは?そして文学史の中での西鶴について、私が忘れていたようなこともご質問いただいて、私にとっては、大変有意義な時間だった。
この数日は、ちょっと緊張したし、一昨日は、一晩眠れなくて、まるで、学生時代の研究発表を控えているかのようだった。

負荷を掛けないと鈍る。
成長できなくなる。

そういう意味では、今回、機会をいただいたことを、本当に感謝しているし、久しぶりに文学について、考えさせていただいた、と思っている。

公開:2022/08/04 最終更新:2022/08/04