お知らせ

この人からはこう見えているんだな。

最初の仕事で、哲学やら詩学やらいろいろ勉強されて、いろいろな物事を教えてくださる師と出会った。
師と言っても、間接的な師で、直接教えていただいたというようなこともない。
でも、短歌を詠むにあたっても、何かを理解するということにおいても、この方からの影響を抜きにして、今の自分を語ることはできない。
最難関の大学の文学部で哲学を学ばれ、それから医学部に入られて医学博士になった方である。
科学者と哲学者の両面をもたれた天才のような方だった。

時にはアリストテレスが登場し、シャンソン歌手も登場した。
詩学を語られる中でどれほどのことを学ばせていただいたことだろう。
その中で、目隠しをした人が、ゾウを触って、それぞれに語った場合、どうなるか?ということを語っておられた。
一人の人は鼻を触って、長い生き物だと言う。
1人は大きい生き物だという。
1人はごつごつしていると言う。
その方った中身はよく覚えていないけれど、とにかくその人によって物事が違って見えるのだということだった。

生徒を見つめる目にまだ固定的だった私は生徒理解が甘い面があった。
今でこそ多面的に生徒を見ようと努力してはいるけれど、当時は自分の価値観など固定されていて、その味方そのもので生徒を叱りつけたり、しかりつけまではしなくとも指導していた。

そんな時、成績はそんなに良くはない生徒について、その学園の校長先生の奥様が、小さいときからその子たちのことを見ていたからか、
あれは大物だね!
とおっしゃっていたことがあった。
その大物という定義を追いかけて私は結構悩んだ。
どうすればそういう見方ができるのかが知りたかった。

一つの物事、一人の人について、人はいろんな見方をすることができる。
いいことだと思われることをそうでないことに思うこともできるだろうし、誰かにとっていい人も誰かにとってかなわない人であることもあるだろう。
感じ方、見方によってそれは変わる。
その誰かからの見方を想像できる自分でいたい。

その学校でのこと。
先輩の非常勤講師の先生が、あることを言われた。
先生のきっちりしてないところを見たら、生徒はきっとホッとするんやろねえ。
とつくづくおっしゃった。
私にはそれがわからなかった。
私はできれば先生にはきちんとしてほしいし、かつてはそうありたいと切に願っていた。その時代の一日を思うと、自分のことなどほとんどできなくて、とんでもない話だったけれど。
数年前、ある女の子が、ある男子生徒が、ある人の弱点を探そうとして(そのある人というのは私です。(笑))必死になっているのを不思議がっている私に向かって、言った言葉がある。
うち、その気持ちわかる。先生に弱いところがあったら、安心するんやと思う。
と言われて、ああ、逆やん、と思った。
自分は一生懸命にしっかりしよう。できれば強くあろうとしていたな、と。

人に対して思うことはいろいろ。
この子にはこう見えているんだな、という観点は大事である。

公開:2023/07/04 最終更新:2023/07/04