お知らせ

鷲田清一『〈ひと〉の現象学』から「知的想像力」について考える。

高1生の模試対策として、学校から出された模試の過去問に一緒に取り組んでいます。
その中で、大学受験国語の世界では有名な鷲田清一の表現である、「知的想像力」という言葉に心惹かれました。
責任の取りにくくなった現代社会について語っておられる論ですが、ピン!と来るものがあり、私はあれこれ事例を出して解説していました。

相手の立場になってものを考える、というのは立派な「知的想像力」であると思います。
自分の受験期に、ちょっとだけ学校の先生の大変さを思って見る。
これだけ○○人の生徒の進路に付き合っていたら、どれほど大変だろう・・・?

そんなことを考えるだけで、自分の受験勉強に余裕が出てきそうです。
自分の勉強だけなら、結構狭い範囲のことだけど、先生方は・・・、と思えたら、結構目の前の勉強に対する気持ちが、少しは軽くなると思うのです。
よそから来た人に対して、異質なもの、という見方ではなく、最初は大変だろうな、とちょっと心を寄せてみる。
それだって、ちょっと自分の心にゆとりがもてることだと思います。
一見、人のことを思っているようであって、実は自分に良い影響のあるような。
いつも誰かに苦情を言われたり、ということの多い人には感謝の気持ちを伝えてみる。
そしたら、何より温かい気持ちになるのは自分です。

鷲田先生のお説とは少しばかり(いえずいぶん。)ズレているとは思うのですが、私は、「知的想像力」をこういうものだと思っています。
論の中では、想像力を発動させなければ、責任を感じることができなくなった、という文脈で使われているのですが、この責任は、積極的にとる気がなければ、どこまでも自分の責任ではなくなると思います。
だれにも責任はない、とも言えるし、多少の責任がある、とも言えます。

人が一番責任あるのは、実は私は、自分の機嫌は自分で取る、ということだと思っています。
なかなか難しいけれど、誰かのせいで自分が不機嫌でいるのは、その誰かに操られているのと同じで、自分が確立していないようなものだからです。
だから、私は、自分の機嫌を取るために最大限の努力をします。
家族のためにもそうですし、仕事をする対象である生徒さんのためにもそうです。
生徒さんにとっての私の機嫌は、いろんな面で大きく影響するだろうからです。

公開:2023/01/13 最終更新:2023/01/13