大好きな女性「きみ子」ーラフカディオ・ハーン『心』より
数年前、ひょんなことで、ラフカディオ・ハーン『心』のなかの作品、「きみ子」と出会った。
『会談』の中の「お貞の話」、『心』のなかの「血の婚礼」、それから、もう一人、嫉妬を許されなかった日本女性の美しさを描いた作品、名前は忘れたけれど、その中の女性も好きだった。
「お貞の話」は、ある意味ハッピー・エンド。お貞の純朴さと共に、共感するものがある。
でも、大好きなヒロインたちの中で、最も好きで、なおかつ共感してしまうのは、きみ子である。
でも、好み的に、私は、自己犠牲の権化(こんな言葉あるのだろうか?)であるかのようなきみ子が大好きなのである。
没落した武士の家のお嬢さんだったきみ子が、母のため、妹のため、芸妓になる。
必死で母と妹を守り抜き、たくさんの男性の求愛をものともせず、そんなきみ子が唯一愛した男性の両親は、きみ子を受け入れる度量があり、結婚する前提で一緒に暮らしていた。
きみ子は、自分は地獄を見てきた人間で、何をしでかすかしれない、と言って、忽然と姿を消す。
いつか坊ちゃんのお子さんに会わせてください、と言い残して。
どんなに捜索しても見つからなかったきみ子。
年月が経ち、男性は家庭を持ち、子どもと共に幸せに暮らしていた。
そこに托鉢の尼僧がやってきて、そのうちの子どもからお金をもらう。
そして、言うのである。
坊ちゃん、お父さんに、哀れな尼僧が、坊ちゃんからお金をいただきました、と必ず伝えてくれるように、と。
京言葉がなんとも優しい。
その言葉を聞いたとき、男性は泣き崩れる。
でも、ラフカディオ・ハーンは、言っている。
その時に、その男は、この尼僧になったきみ子と、己の懸隔を知る、と。
きみ子の愛は深い。
仏の娘、とまで表現している。
そんな生き方、到底できるべくもないけれど、このきみ子に、私は、とんでもなく憧れてしまうのである。