隣の芝生は青く見えるということ
友人と電話で話している。
私たちの会話。
あなたはいいわよー。
というセリフが何度か出てきている。(ような気がする。)
私たちの立ち位置的に、どちらから見ても、どうして互いが、
あなたはいいわよー!
になるのか不思議である。
おそらく周りの人たちがこのような会話をしていると知ったら、大いに笑うであろう・・・。
私も非常に可笑しい。
だって、私は仕事をしているし、彼女は専業主婦としておそらくは周りから見たら素敵に見えるはずである。
どちらに重きを置かれるかは、その場所場所で違うくらいにそれぞれがそれぞれの立場で生きている。
そして言っている。
あなたはいいわよー。
これが可笑しくてならない。
けど審理でもあるだろうことくらい私にもわかる。
最近、人って外から見ただけではわからないということがつくづく分かったから。
センチメンタルに自分ばかり苦労していると思ったらとんでもない。
よく一生懸命に生きてきて、なんでー!?
というような言葉を聞くけれど、そんなに納得のいく人生なんてあるのだろうか?
というより人生なんてそもそも理不尽だと思う。
親は選べないし、子も同様。
周りの人間だって好き勝手するし好きかって言う。と自分からは思われる、のが当たり前。
客観的に見てどう見えようと、その人にはその人なりの真実があるはずである。それは誰にも咎められない。
単純に自分ばかりが大変で、人は良く見えるだけである。
でも、私なりのしあわせの定義を言うと、だいたいにおいて、しあわせな人って、コマコマ動いているような気がする。
誰かのために、面倒くさがらずに、時間があったら歩くなりそのほかの手段ででも、とにかく人のために一生懸命なんだと思う。
アドラーの言う、それこそが自己貢献感というものかもしれない。
公開:2023/10/18 最終更新:2023/10/18