お知らせ

叔母との会話から。ー七尾の食祭市場に行ってきました!

地震がありましたね。
ちょうど教室で指導中、生徒と私のスマホの緊急を知らせる音がして、まさか、と思っていたら、大きな揺れを感じ、結構不安な気持ちになりました。
その後、震源が能登であることを知り、いろんな思いが去来しました。

実は先日、叔母とラインで久しぶりに話をしていて、姪としてはとってもありがたいことを言ってもらって、不意に私の心は明るくなったのでした。
その後、ドライブに出かけ、富山の素敵な写真を写して、叔母に送りました。

変わらへんなあ・・・、と何度も叔母は言ってくれました。

雨晴で写真を撮りながら、見晴るかすのは能登半島だなあ、と思っていました。
母の幼馴染が、小学校5年生のときに、お父さんの事業が失敗し、その後ご長男に後を託され、お父さんが亡くなられたので、七尾の親戚のお家に引っ越していかれたのだと以前から聞いていました。
とこちゃん、どうしてるかなあ・・・。もう死んでるかもしれへんけど。
と、いつも七尾に行かれたお友達のことを母は思っているようで、いずれ連れて行こうと思っていたのでした。

七尾は私にも思い出がたくさんあります。
新婚で金沢に住んでいたゴールデン・ウィークに、夫の大学時代の友人で私とも仲良くしてくださっていた方が遊びに来てくださって、一緒に七尾の当時はフィッシャーマンズ・ワーフに出掛けたのでした。
その時食べたのがボンゴレだということまで覚えていて、その先輩が、貝を焼いたのを食べていたのもまだ眼前にあるかのように思い出されるのです。
その後、あちこちに行ってから高岡に帰ってきたときも、ゴールデン・ウィークにはよく出掛けました。
能登島水族館もよく行きました。
だから、ふと行っておこう!と思い付き、ある日、出掛けよう!と母を誘って行きました。
いつも、七尾というと、地震が・・・、と言うのに、母はそのことに気付いていないようでした。
というより、朝早く用事を済ませて出掛け、母はまさか自分が七尾まで連れていかれるとは思っていなかったようでした。
着いた頃にはまだ開店していないのではないか、と思われる様子でしたが、ちょうど出来立てのお寿司が、次から次へと並びだしたところでした。
母は喜んで、これがいい、あれがいい、と言って選び、たくさん食べてくれました。
海の色も海風もそれは爽やかで、喜んでいました。
ちょうど長谷川等伯展が美術館で開催されるということも知って、もう一度来たいなあ、と思っていました。

とっても気に入って、母は、夕食の分もお寿司を買って帰り、普段の様子を知っている私には、その食欲にびっくりし、また来ようね・・・、ということになっていました。
お昼には高岡に戻って来ていました。

味を占めて、お休みをいただいた初日に、所用を済ませたその足で、また七尾に向けて走り出しました。
母は、もう遅くなりそうだし、ことさらに行きたいわけではないけど・・・、と言っていましたが、少しばかり私に気を遣ってのことのようでした。
七尾に着くと、母はまたまた大喜びでした。
夕方だったので、街中を走らせ、何をするということもなかったのですが、また先日とは違う七尾の海を楽しんでいました。
今度は遊覧船に乗りたいね・・・、と話していました。

それが連休初日。
私のお誕生日のことでした。
そして一昨日の5日。
教室にいるときに地震を感じました、

能登が震源だというときに、あれこれ複雑な思いをします。
大学時代の4年間、顔さえ見れば喧嘩していた同級生が、能登の珠洲の出身でした。
金沢に住んでいるのですが、能登半島の先から8キロほど入ったところにご実家があるのです。
今、連絡をするような関係ではないので、どうしているのかはわかりませんが、私はいつも能登半島に何かあると心配していました。
誠実な、頭はいいけれど、不器用な人でした。
素敵な奥様と結婚して、3人のお子さんのお父さん。
後輩に見せてもらった年賀状の写真を見て、ああ、良かった・・・、とわがことのように嬉しかったのを思い出します。
そんな彼は彼で、就職の時も心配してくれて、結婚するときには、私と共通の先輩である夫に「よろしくお願いします。」と頭を下げてくれたのだそうです。
離れてから、会わなくなってからもう何十年も経っているのに、おそらくは互いにしあわせを願って来ただろうと思うのです。
後輩も、よく、〇〇さんだったら、○○してくれる・・・、という表現をその彼についてしていたものでした。

母にも大事な人がいて、私にも大事な人がいることを思い起こさせる能登半島です。
その能登半島が震源の地震があり、この後、私は高齢の母を連れて行くのはとても怖くて無理になるだろうと思います。

直前、思い立って出かけて、正直無事だったからですが、本当に良かった、と思います。
叔母との電話があり、写真を送りたい、と思っていなければ、七尾まで母を連れて行って、喜んでもらうというようなことはなかっただろうと思います。

私にはふと思い立つとうまくいった、ということもありますし、どうしても行く気になれなくて、それが良いことになった、ということもあります。
不思議な話でしたが、先日行っておいてよかった、と思います。
母が動けるうちに、できることはしておこうと思うのです。

先日、腰の痛みを訴える母に、整形外科の先生が、
楽しいことしていたら痛みも忘れるから・・・。
とアドバイスしてくださいました。

現役世代の私たちの生活を見てはあれこれ思うところもあるだろうと思うし、こちらが思い至らない思いもしているのだろうな、とも思うのですが、とにかく、できるだけ生活を楽しんでいてほしいと思うのです。
新卒で勤めていた頃から母は私の生徒さんのことをよく覚えていて、卒業生が実家に電話をしてきたりすると、嬉しそうでした。
塾生のことも一人一人の名前を覚えて、一緒に愛しそうに話しています。
時には人生の先輩に、生徒のことを相談することもあり、時にその鋭さにびっくりします。
叔母も、先日から私がどうしたらいいのか、と思っていたことに対する答えになるようなことを言ってくれて、持つべきものはやはり長く人生を生きてきた、年配の相談者だなあ、などと都合よく考えていたのでした。

真弓は、まだまだやりたいことがあるみたいで・・・。
と母に話していたそうです。
この叔母と話すたび、私は自分がいつも何を考えているのか再認識させられます。
年々平均寿命も延びていると思います。
私たちの親世代の寿命と私たちの寿命にはやはり違いが出て来るのだろう。
残りの人生、ではなくて、これからの人生を豊かに生きていく努力はいつまでも必要になってくることでしょう。
体力づくりをそれぞれに勧めてくれます。
毎年、受験が終わったら、トレーニングしなければ、と思っているのですが、ああ、もう5月です。

それにしても父を見送ったときに思ったのですが、その過程で何があったとしても、最後が楽しくないと、楽しい人生だったとは思えないのではないか、と私はその最後が楽しくなるように、と父の顔をできるだけ見に行っていたものでした。
その時につくづく思ったのです。
若いころに楽しいことがたくさんあったとしても、晩年のひととき、死ぬ直前が楽しくなければ楽しかったとは旅立てないだろう。
仮に若いころに何があったとしても、晩年のひとときが楽しければ、ああ、いい人生だったと思って旅立っていくことができるだろう、と。
それからはそれが私の死生観となりました。

最後の在り方で、それまでのことは良くも悪くもチャラ?になってしまう。
だから、最後は素敵に見送りたい。

私はある人が、夫がもう死に際になって、それまではずっと夫の言うことを聞いていたのに、最後の最後、まるで仕打ちをするかのように大事にしなかったということを聞いたことがあります。その旦那様はかなり横暴だったそうです。
それは世間の評価とは違うこともあるでしょう。
もちろん、妻に対してのそれまでしてきたことは消えません。
でも、死ぬときくらい、ひととき赦しのときがあってもいいのでは?と思うのです。
でも、そんな話をあちこちで耳にします。

母は、身体の小さな母は、兄が東京、妹が兵庫、私が富山にいるので、大阪で一人で、父を最期まで看取ろうと頑張っていました。
近場の妹が一緒に看取ってくれました。
そのとき、私は母の姿が喜ばしかったのです。
父がしてくれたいろいろなことに感謝して、少しでも父が楽であるように気を配っていました。
母のそばに帰りたくて、退院したい父が一生懸命にご飯を食べる姿を愛しいと思っていたようでした。
父は最期を母のそばで、母と晩年過ごした自宅で迎えたかったのでした。
父は厳しい人でしたから、母としては結構大変だったこともあったと思います。

そんな父も私の顔を見れば母についての愚痴も言い、母は母で父の愚痴を聞かされました。
だから夫婦なんだろうな、と学んだりもしました。

もっとあれこれしてあげたかった、という母に、私は、なぜか母が笑顔でやりおおせたとばかりにスッキリした顔で三途の川を渡ろうとしている様子が思い浮かび、それに父は私の夢によく出て来るので、
お父さん、やりおおせた!生き切った!と思ってるみたいよ。
と話していました。

私も父のように、自分の人生をしっかり生き切りたいな、と思っているのです。

公開:2023/05/07 最終更新:2023/05/07