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恋について語る、国語の教師でありながら・・・。トホホ。

先生の古文の授業の声が柔らかくて、耳に心地よくて・・・。
こういう表現を何度されてきたことだろうか?
そのたびに苦笑してきたというのは否めない事実である。
否めない事実だなんて、その笑いの意味を自分で考えているところなど、思い切り現代文の人間ではないか!?

今、とっても関心をもっている映画「別れる決心」のストーリーなどを読んでいると、かつて映画理論について学んでいたときのあれこれがあるのを感じる。
微笑についての解釈。
これはヒロインのソレの微笑もあれば、相方のヘジュンの微笑もある。
その、ある意味不思議な微笑も意味をあれこれ解釈する。
着ている服、壁紙の色、海の意味、山の意味、どういう人物像化ということを監督が意味を散りばめて映画を構成している。
そういうことがたくさんあるのが映画だったと思う。
そういう意味で、私は、最近、映画に強い印象を持つことができない。
ストーリーがシンプル過ぎて、それに映画の中に暴力や性描写などの印象の強い要素が散りばめられていて、そちらに気持ちが向いていきがちである。
もちろん、映画は虚構の世界だから、人間のドロドロした部分を描いてもいいと思う。
差別的表現、だとかプロパガンダ的だとかいうような、ときにいわゆる難しい話にしてしまうのではなく、もうどうしようもないだらしなさも、どうしようもなく人に惹かれる思いも、不条理さも非現実さもすべてを描いていいと思う。
それなのに、偏った、目を引くものばかりを描いていては、もっと強い刺激がほしくなるばかりで、なんの(これはかなり言い過ぎ。)カタルシスもないのではないか?と思うのである。

私はかつて、ケビン・コスナー主演の禁酒法時代のアメリカを描いた、「アンタッチャブル」が大好きだった。
少々映画理論をかじっていたので、駅の階段での激闘シーンを見て、ああ、あの場面と思うところがあった。
駅の階段からお母さんが驚いて乳母車の手を放し、赤ちゃんを乗せた乳母車が階段の上をゆっくり降下していく。乱闘のさなか、警官のアンディ・ガルシアの足がその乳母車を留める。
それは、講義の中で見せてもらった、「戦艦ポチョムキン」の階段の場面を思わせる構成になっていた。
今でのその場面は私の頭の中でくっきりと映像として残っている。
当時はケビン・コスナーも、アンディ・ガルシアも大好きだった。
友人と観に行ったのを覚えている。
彼女は、後輩から、
先輩、絶対観に行ってくださいよ!男のロマンですよ!
と勧められたらしかった。
なんで男のロマン溢れる作品を女二人で喜んで観に行っているのかよくわからないが、そういう映画を観て、男のロマンに浸るのはだいたいにおいて私の方である。
そうそう、男の友情、男のロマンが大好きである

そんな私が古文を語っていて、思い切り女性扱いをされたら、浮気をしているような気になる。
私は現代文の教師だ!と言うわけである。
でも、なぜか一見古文の教師に見える。
事実古文の教師ではあるが、そうそう女性っぽいばかりではないわけで・・・。
私を女性扱いする人には、
え、あの、あの、えっと、私は、実は・・・。
と言いたくなるわけである。

だいたい国語において私という人間を表すと、
思考は評論文、こころは古文と小説、意志は漢文で表すことができる。
それを、それぞれの時間は切り替えて指導している。

それが、評論から古文に行ったときの、こころがホッとする感じ。
漢文を教えるときの、来たねー!男のロマンを語ろうじゃないの!
そして、評論を解説するときの、思い切り頭を使って解説する感じが大好きである。
私の違う部分を使うことを要求されるようで、新鮮なのである。

ところで恋である。
どうしようもなくはまってしまう恋について描かれた作品。
その中にはどうしようもなさ、不条理さ、今まで現実社会でとんでもなく真面目に生きてきた人が突然変貌する。
セリフにあるように、完全に崩壊する。
そんな有様を描いて、それを納得させる、いや、意外に不安定にさせるのでもよいのかもしれないが、それが深ければ深いほど、文学を思うことになる。
文学。人についての学問。
私は、教室で教育というものに携わり、ついついきれいごとを並べたくなってしまうけれど、本来人間というものはどうしようもないものなのだと思う。
それを学び、そして人間をもっともっと深く知っていく。
一生掛けてもおそらくはわかり切ることのできない人間存在ではあるけれど、それでも自分が死ぬまでは人間の可笑しさも悲しさもどうしようもなさも味わえるし、楽しめるし、日々新たな発見をすることができる。
限られた生を全うし、人間とは何かということを考え続けていきたい。

公開:2023/02/27 最終更新:2023/02/27