お知らせ

悲しめの思いが好きなのかもしれないなあ。文学ってそういうものなのかもしれない。

雨晴と付き合って、いったい何年になるだろう?
北陸に来てからいつも雨晴は素敵な場所としてあり、できればすっこーん!と晴れた日に見たいと思って来たけれど、あるとき、もう自分に寄り添ってくれているものとして、日常の自分に寄り添って、いろんな姿を見せてくれ、それは文学作品のように、自分の心を投影するものになっているのかもしれないと思うようになった。

私は、よく雨晴の海岸沿いを車で走る。
ちょっと時間があるときに、ドライブしてくる。
もう少し時間があるときには氷見まで行って、何ならお食事してくるかもしれないし、お魚や野菜を見たり、小物を見たりするかもしれない。
ある年の冬、なんとも重たい気分で、いつものように車を走らせていた。
海はなんとも言えない鉛色。空もどんよりと重たい感じ。
そして、雨晴。
こんな姿、観光客に見せないでしょう?という、なんとも普段の北陸での日常を見せている。

以前、他県から来た友人を案内して、走った雨晴は、こんな素晴らしい姿を見たことがない、と思われる姿で、ああ、凛々しいと思ったし、これこそ雨晴!と思ったけれど、それは今となってはちょっぴり余所行きの顔で、自分がどんよりした気分の時に、まるで同じ気分であるかのようにどんよりとした姿で、私はなぜか自分の心に馴染み、ホッとしたのを覚えている。

辛いときにはつらい想いをしていればいいのだろう。
いつもいつも同じ心の人と出会うばかりではない。

それよりもむしろ、あまりにも順調な時には、何かマイナスの要素になるようなものがほしくなる。
いつもよりしあわせに向かってあれこれしているにもかかわらず、何もなくなると不安になる。
だから、私は周りによく言われるように、何にもなくなると、敢えて何かを作り出したくなる。

いえいえ、決して、何も憂いもなく、不安もなく生活しているのではありません。
自分のことだけならいざ知らず、まだまだ未解決なこともたくさんあります。
生きているというのはそういうことです。

でも、自分の目に見えていなくて、それにいいことが続いたりすると、私は不安になる。
心配がないと不安になる。

そんなとき、ちょっと雨晴の海が、どんよりしていると、ああ、これでいいんだ、と思ったりするから不思議である。

以前、俵万智さんがエッセイで、いい短歌は、むしろ失恋をしたときの方が詠むことができ、恋がうまく行っているときにはあまり上手にできない、というような意味のことを書いておられるのを読んだ。
それはそうで、何かいいものを生み出すにはマイナスの要素があるとかなりそれはエネルギーに転換されると思う。
何もなく、平穏な日々の中では頑張りがきかないものなのかもしれない。
それと湧き上がる情熱。
どうしてもそれをしたい、という思い。
知への渇望でもいいだろう。
芸術へたぎる熱情でもいいのかもしれない。

ときに私はマイナスの要素を探しまくってしまう。
それがないと頑張れない、というように。

それで、不思議なのは、ときに、占いの力も頼る。
それが、いい結果を出したいのではなくて、そうでないことを願って・・・、というようなことがあり、ばっかじゃないの!?と言うようなこともあった。
なにかマイナスのことがあれば頑張れる・・・、と思い、占いに行き、素敵なことではないことを言われ、そこで一人前に落ち込んだら、その占ってもらった次の日には、事態は反対になっていた、ということもある。
結局、占いって、自分の心の投影なのではないか?と思っている。

だから、結果的に当たらないことが多い。

占いを、全部自分の夢が叶う形にひっくり返してしまったこともあった。
結局、その時の自分の気持ちを言ってもらっているのではないかな、と思う。

それにしても、いい方じゃないことを言ってもらいたくて、占ってもらった・・・、と話したら大笑いされた、というのは事実である。
かつて、エッ!?違う方がいいの?と言われ、相手も驚いておられたことがあった。
もう何年前だろう?
でも、その時はそのいいことがなければおられなかったのだろうと思う。
鍛えるのもいい加減にした方がいい。

公開:2023/02/26 最終更新:2023/02/26