お知らせ

正しさの追究ー正義は人の数だけあるという・・・。

生徒さんの姿を見ていて、昔の自分の姿を思い出すことがあります。
よくあります。

かつて、中一の担任の先生に
正しいことを貫く人ですね。芯の強さを感じます。
と書かれたことがありました。
今から思えばあまり嬉しい言葉とも思えないかもしれません。
一方で、
お前は温和やな。
怒ることはあるんか?
とも言われました。こちらは中三の時でした。
おそらくはその二年間に少々の成長があったのではないでしょうか?
中一の頃は正義感を出して、よく怒っていたような気がするのです。

そののち、進学校に進学したら、正直、自分の正しいことなど貫いてはいられなくなりました。
進学校の正義は成績です。
成績だけで語られる、その他の要素では語られない。
ある意味潔くてわかりやすくて生き易いと言えば言えるし、その価値観のみを追究すればいいのであれば楽です。
でも、世間はそんなこと許してくれない。
出てからあれこれ言われますよね。
特に可愛げがどうの、とかいう文脈で・・・。
そしたら、また、母校を否定したくなるようなことにもなり、価値観というのはたくさんあるものです。

あれこれ忙しく価値観も変わるところを渡り歩いていたので、もう最近ではいったい何が正しいのかわからなくなってきました。
そこで、行きついたのは、よく世間で言われるところの、正義は人の数だけある、ということです。
道徳的でないことを認める、というのではありません。

東大法学部を出た弁護士の先生が、湾岸署に接見に行き、思ったことについて、お話されていたのをお聴きしたことがありました。

俺がこいつの成育歴だったら、もっとすっげえ犯罪犯していただろうな。
俺がこいつだったら、もっとすっげえヤクザになってただろうな。

と思ったのだそうです。

ほかの東大文学部を経て弁護士になられたという素敵な先生も、暴力団同士の抗争の中で、
相手だと思っていたら、間違って兄さんを殺してしまった、という可哀想な事件で・・・。
などと表現されているのを聞きました。

正義とは何か?ということを追究する人の言葉だからか、その物事や人を相対的に見る目がおありであることにびっくりもし、感心しもしたのです。
どんな人にもその人なりの正義がある。そのうえで社会的、人道的に許されないことは、個人的な報復は許さずに国家に任せ、刑事訴訟で(その後民事訴訟に移るにしても。)国家が個人の代わりに裁く・・・、ということになっており、犯罪を犯した人にも、その人権を守るために弁護人が付くことになっている。
このことには深い深い意味があると思います。
現代文を教える身であるので、法律に関する文章にも触れる中で考えてきたことがあります。

自分が正しいと信じていることが、本当に正しいと言えるのか?ということは常に検討していかなければならない、と思っています。

ちょっと話は変わるのですが、人の言動に対して疑問に思うときには、私は、その人から、その物事がどんな風に見えているのかということを理解しようと努めます。
中学生や高校生とお付き合いしていると、そうそう理詰めではなく、精神的、肉体的成長と共にその子自身が揺れているのを感じることもあります。その揺れに対しては深堀しないで、そっとしておくこともありますし、これは放っておくよりもいいな、と思うときにはそれとなく声を掛けることもあります。
それにしても、それは違うでしょ?と思うときには、いったい、この子からはどんな風に見えているのかな?ということに心を砕くようにしています。
それも面倒くさいこともある年ごろでしょうから、あまり干渉しない方がいい場合もあります。

それこそそれぞれに正義がありますから。

一昨年公開された「虎狼の血 Part2」で、とんでもないモンスターを演じられた鈴木亮平さんが、ちょうどコロナ禍のため、仕事がなく、その脚本を半年間読んでいたので、その間に、演じる上林の成育歴などを研究し、どんなものの考え方になるか?ということを追究していったら、価値観がご自分の中で逆転していくのを感じられ、
僕自身も無傷ではいられなかった・・・。
とおっしゃっていました。

その感覚が私にはわかるような気がするのです。
優しそうなお顔で、結構価値観も偏っていなさそうな鈴木亮平さんが、その役になり切ったときに、その人物の価値観を徹底的に追究したら、そういう感覚になって行くだろうと思います。

その価値観は正しいか正しくないか?という基準で測れば、とんでもなく悪です。
でもまた、上林には上林なりの正義も、そしてい言い分もあるはずです。

ただ、人から良くないという価値観をもった人というのは、おそらくは真にしあわせではないと思います。
何が理由化はわからないにしても。

あまりに極端な例でしたが、自分の教え子にしあわせになってほしいと思うし、自分が関わった人にはしあわせでいてほしいのです。
だから、できることなら道徳的にもあまりおかしなことをしてほしくないし、もっと言うなら、道徳的でないことをしたいとも思わないほどに人生がしあわせなものであることを願っています。

今日、あることで塾生のおばあさまがご挨拶に来られました。
お孫さんが勉強する気になったことについて、喜んでくださっていました。
ここの塾は櫻井学校やよ・・・。
先生のオーラなのか、雰囲気なのか、何がそうなっているのかはわからんけど、ここは櫻井学校やよ。
あれだけ欲のない、これと言って特徴のない子が、あれだけ勉強するようになって・・・。
そんなもったいないお言葉をどう受け止めていいのかわかりませんでしたが・・・。

何をしているのかはわかりません。
ただ、若いときのいっときいろいろあることもあるだろうけれど、そうそうきれいごとばかりで生きていけるほど人生は甘くもないけれど、それでも、それぞれが楽しくてしあわせな人生を送ってほしいと思っているのです。

公開:2023/02/07 最終更新:2023/02/07