お知らせ

自分を客観的に見るということは良いことかどうかと悩む私。

先日の性格診断でもあったけれど、自分の感情を客観視していて、それについて自覚があるらしい私。
それはもうとっくに大学時代、心理学の卒論を書いていらした先輩の被験者になったときに指摘されていたことだった。
自分を客観的に見ているらしいということ。

どちらかというと、特に教育に関しては情熱的に見られがちなのだけれど、この客観的に見ているという自覚は大いにある。
怒るときも、どうも決意して怒っているようなところがある。
感情を認めるかどうかも考えて。

それをいいことと思うかあまりよくないことと思うか、決めかねている。
生徒に対して叱るときも、その効果を見据えているし、私との関係性や指導の進み具合によって、私は、もうそろそろ行っても大丈夫、と思ったときに叱ったり説得したり、また、アドバイスもする。

教師も人間。
もう少し感情で起こってもいいかもしれないな、と思うときもある。
それは、周りから見て感情的だと思えることであっても、意外に冷静になって怒っているときもある。

叱られ慣れていない場合、生徒さんも叱られたことをどう受け止めていいのか、一瞬迷うこともあるようである。
でも、これは長年の経験で、今だ、と思ったときを、あまり外すことはない。
だいたいにおいて、レディネスとも言える、叱られる準備状態ができているのを確かめてから私は叱る。

意外に、経験だけではなく、学問的に、大学で学んだことや、その後採用試験のために学んだことも役に立ってくれている。
とても経験だけだと、それを分析的に使えないし、また、学問やその他の書物からだけだと、また実践に役立てることもできにくい。
どちらもあるから、そして、ある程度、この無理と思える受験でも、ここをこう言ったら伝わって、勉強する意欲になる、と経験的に信念があるからこそ、なんとか導くことができるのだと思う。

こういうことって、私なら生徒さんに対してだけれど、いろんな人間関係にも言える。
相手が、受け止める準備がないところに何か言っても、誤解されたり、曲解もされるかもしれない。
相手との関係性もさることながら、相手の性格や人間性などを見極めて、その相手にきちんと届く形で話したい。
また、話してもらえると嬉しい。
いきなり、というのは良くないなあ、とも思っている。
タイミングというのは大事である。

公開:2022/10/31 最終更新:2022/10/31