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「恋つづ」の魔王に共感してしまう私のこころ・・・。(笑) でも真面目な話。

相変わらず、なんで「恋つづ」の魔王こと、天童先生にこれほど共感してしまうのか?ということを分析してしまう毎日である。

で、ある人が今、金沢にいるということを知り、ちょっと会いに行ってきたいなあ・・・、と思っていることから、あれこれ分析は進んでいる。

「魔王と呼ばれるほどになるまで頑張って・・・。」と勇者が言ったときに、天童先生の表情が驚きのあまり、緩んだのを見逃しはしなかった(佐藤健に何の興味関心もないけれど、佐藤健と上白石萌音ちゃんが結婚しても、なんとも思わないくらい、どうでもいいけど。)。この俳優さん、やっぱり上手なんだろうとつくづく思う。

そこで、この人の固まった心を溶かすに至る出会いや、自分が何を言っても慕ってきてくれる勇者ちゃんの存在が、全く彼を変えてしまうに至る過程を見ていて、以前そうはならなかった発見がたくさんあった。

実は、新卒で勤めた学校で、ほとんど唯一に近く(当時であって、あくまで当時。)尊敬していた先生がいらした。
最初に出会った時のことを覚えている。
新人?一年目は走らなきゃダメ!何にも判断する力はないんだから!
と言われた。
あれこれ聞こえてきたアドバイスがあったけれど、私はその先生のその言葉を大事に大事に思っていた。

先生は、教科も同じ。東のもっとも有名な私大の一つをトップでご卒業になったとか、そうでないとか(そうでないとは誰も言っていなかったけど。)で、私は、ご経歴ではなくて、その先生の、仕事ぶりが好きだった。
精緻なのである。
それに、そっと先生の仕事をサポートしておくと、本当に喜んでくださった。
繊細な方で、結構細かい私の神経が、何かに響いたときは、サッと気付いて、言葉を掛けてくださった。
厳しい人だった。でも、どこかで卒業生に会うと、「○○先生は、優しい人だから。」と必ず言っていた。

とっても奥様を愛していらっしゃるのが伝わって来たし、その奥様は親友の妹さんだったらしい。
なぜか、私は、先生に素敵な奥様がいらっしゃることにホッとしていたし、ご家族が仲良さそうなことも嬉しかった。

それほど、ご自分に厳しい方だったのだと思う。
そんな先生の仕事が私は好きだった。

私は自分に厳しい人に惹かれるところがある。
厳しい人って、ときに人にも厳しくなりがちとは言え、もう少し大人になって、それも柔らかくなり、自分に厳しいのも少し変わってきて、人にも寛容になってきたら、その人自身がしあわせになるのだろうと思う。

生徒が、私のことを自分に厳しめ、と言ってくれるけれど、本当にわかってくれる人にわかってほしいけれど、そうそううまくはいかないものだと思う。
私は特に、優しめに見えるし、融通も利くように見えるので、よく、「私の方が気を遣っているのに・・・。」説にさらされる。
自分だけ言いたいこと言ってる説には、自分だけしたいことしてる、と言い返したい気持ちになったことがあった。

でも、どこかで発言したら、あれっ?意見が通ってしまった・・・、と驚いたことがある。
することはしていると、自分でも思う。
ただ、言わなければならないことは、自分にたとえ都合の悪いことでも言ってしまうようなところもある。

高校時代に付き合っていた人の、唯一と言える名言は、「自分(私のこと。)は、正直に自分から言っちゃうじゃん!」だった。
たぶん、自分はかなり正直な方だと思う。

先生のことを、ずいぶん長い間、どこかで気にしていた。
何のタイミングでか、結婚式にお呼びしなかったことも、ずっと気にしていた。

その先輩が、今、金沢におられる。
私の中で、なぜか、お別れした頃のままの先輩の姿がある。

たぶん、行かないだろうな、とは思っている。

でも、魔王に惹かれる自分を思うとき、どこかで、先生のことを思い出したのは事実だ。
そういえば、金沢には、大学四年間、顔を見れば喧嘩をしていたけれど、就職がなかなか決まらなかった私のことを心配してくれ、結婚が決まったときには、「よろしくお願いします。」と頭を下げてくれた同級生もいる。

大阪を離れることになって、久しぶりに会った友達とお食事をしながらも、その同級生のことを話していた。そのときのその彼の名言がある。
「あんなあ、僕は、喧嘩したり、悪口言い合う仲って、ほんまは相手のこと悪く思ってないと思うねん。」
あっちも言ってたけど、どこかで、お互いの誠実さを信じていたようなところがある。
その彼も、結構自分に厳しく、他人にも厳しくて、でも優しい人だった。

しょっちゅう出張で行く金沢に、その人たちがいるということに、どこかで驚いている。
思い出の中に鎮座ましまして、その時のままの人たち。
でも、私はいつもそうであるように、思い出の中にいる人に会いに行きたいとは思わない。
なぜなら、私はいつも、今を生きることに忙しすぎて、そんな余裕があると思えないからである。
会えば混乱するだろう。
その頃を今につなげようとして。
遠方から連絡を取って来られた先輩には、正直幻滅した人もおられた。
なんで今がしんどいことを、かつての誰かと共有しようとするのだろう。
私には共有したくなる何もなかったし、ご馳走してくれる、と言われても、わざわざ出張のときに会う気もなかった。

ずっと新たな出会いがあった。
どれほど多くの人と出会って来たか?ということを考えると、自分でも恐ろしくなる。
それほどの年月を過ごしてきた、ということなのであろうけれど、どうしてこうも、出会いの多い人生になってしまったのだろうと、時折呆れてしまう。
今日も、新しい出会いがあった。
新入塾生と、保護者の方から、いろんな話をお聞かせいただいた。

最近、人の姿からの発見が多い。
発見があれば、自分を客観的に見ることもできるし、どこかで引っかかっていた自分のある部分を乗り越えられたりする。
随分長い間、最近、発見することがないな、と思っていたのに、ここのところ、あっ!そういうことだったのか!?というようなことが続く。
この時間、この場所にいた意味を感じることがある。
ちょっと、『存在と時間』の影響を受けているのかな?

公開:2022/10/09 最終更新:2022/10/09