お知らせ

西鶴を復習しています。(笑)ー復習するものだろうか・・・?

さてさて、今度の朝活上市さんで、語らせていただくことになった、井原西鶴の『好色五人女』。
書棚を探してみたけれど、なくて、どこにやったのだろうと思ったのは、大学時代のテキストになった、挿絵のなかなかにリアルに、なんとも言えない挿絵手のついた、『好色五人女』だけの単行本だった。
いや、とにかく全文読み返さなければ・・・、ということで、急遽、我らが国文科が、その注釈において一番信頼している、岩波の大系本の、好色物だけを入れた本を中古で探す。
ありました、ありました。
一代女は持っていないので、いや、あるかもしれない・・・。
けれど、とにかく注釈においては新しいことを知ることもあるだろう・・・、と思って、注文したら、昨日届き、とりあえず、「お夏清十郎」は読んだ。
こんな話だったっけ?と思うところもあり、注釈を読んでみると、若いころに読んだのとは違う味わいも、知的発見もある。
注釈を読んでみても、それなりに生徒たちに、和歌の修辞法などをたくさん解説してきた経緯があり、今ならすんなり入る、ということもある。

なんで西鶴を選んだか?というと、やはり人間性の解放、ということを伝えたかった、ということが大きいのではないか・・・?
なあんて、大きいことを言ってるけど、正直、あんまり堅い方に偏ってばかりいるとバランスを崩すので、ちょっとおもしろいことを言ってみたくなったのである。

牡牛座のくせに、上昇宮てんびん座の私は、どうもどちらかに偏るのが好きではない。
堅い話が続くと、ちょっと柔らかい話をして、バランスを取りたくなるし、柔らか目の話が続くと、思いっきり学術的な話をしてもらいたくなる。
最近、ちょっと番う分野の話が続いたので、今は亡きおばあちゃんを偲びつつ、大阪の笑いでぶっ飛ばす精神を思い出したくなったのかもしれない。

このおばあちゃんは、相当に不謹慎である。
お知り合いの人がなくなったときの発言にあきれ果てたことがある。
後に母に話したら、そんなこと言うたん?おばあちゃん?とびっくりしていた。
(このエピソードはちょっと今の私には書けませんでした。すみません。)

ああ、こういう人の孫なんだな、私。
とつくづく思うことがあった。
同じ大阪出身でも、大真面目な母とは違うタイプの女性である。
ちょっと行きすぎ、とはいうものの、これは西鶴大先生と同じ、人の死をも笑い飛ばそうとする、悲劇を悲劇と語って終わり、ではなく、どこかでバランスを取ろうとしているような気もする。

私は、そういう面を持ち合わせていないので、時折生徒たちには、私のおばあちゃんがいかに不謹慎で、呆れたか?という話をして持ち出しはするが、それにしても、人の苦しさや寂しさも十分に分かったうえで、笑っておかないといけないような気になるのは、どこかで理解しているような気がする。

人が好きそうで、周りに人がたくさんいる人が、その実、相当な人間嫌いであることはよくあることで、相当に不謹慎なことを言っているようで、その奥底には、自分もそうなったらどうしよう?くらいの気持ちがあるからこそ、そういう風に言っていたのではないか?とも思われるのである。

表面的なものだけで、表面的な表現だけで、その人を判断してはならない。
これから先、西鶴について、どれほど勉強するのかはわからないにしても、ほかの作品も読み込んでみれば、西鶴という人が見えてくるかもしれないな、と思っている。
この、とんでもない天才の人間性を、浅はかに判断してはならないと思う。
言うなれば、一生かけて、理解しようと努めなければならないことは多い。

音楽だって、聴いている分には軽くていいけれど、演奏するとなると、それなりに理解も必要だろう。
古典文学だって、いや、近現代もそうであるけれど、わかったつもりになったりせずに、一生かけて、人間とはどういうものか、探っていきたいと思っている。

公開:2022/07/29 最終更新:2022/07/29