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若い頃の不安な日々ー抗核抗体と症状とー高岡の個別指導塾&相談室チェリー・ハッピー

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桜井ユキさんは、映画「娼年」に出演されていた時に素敵だなと思い、昨年朝ドラ「虎に翼」では名門華族のお嬢様を素敵に演じておられ、その後は記者役などもカッコよく、大好きな女優さんです。そんな桜井ユキさんが、NHKの「しあわせは食べて寝て待て」という番組に出ておられるのは知っていました。

膠原病の女性の話のようです。
まだ観てもいないのに関心をもっているのは、それはそれなりに思い出とつながっているからです。

かつて札幌で、もうすぐ四歳になろうかという頃、娘がマイコプラズマ肺炎に罹りました。
まだ一歳になったばかりの息子をおんぶひもでおんぶして、娘を大きな病院に連れていきました。
その時はまだ若く、まだ今の娘の年齢にもなっておらず、いっぱしの母親面をしていたのがおかしくもあるのですが、ショートカットにすっぴんで、くまのプーさんのトレーナーを着て、デニムに長靴。もう取るものもとりあえず大病院に走ったのを覚えています。
その時のいでたちを覚えているのは、その後、えらく若い母親(実際かなり若かったのは事実ですが。)に見られたようで、言ってみれば、

舐めたわね!

という事件もあり、かなり誇りを傷つけられたことがあったからなのですが、それにしても結構大変でした。
夫は12月で、仕事が最も忙しい時期のうちの一つ。
入院することになって、私が寝泊まりすることになったとき、最初は協力的だったものの、それなりに自分も協力して早めに帰って来なくてはいけなくて、会社で立場のない思いでもしていたのか、

お前も、○○の嫁やったら、12月に子どもを病気にさせるようなことをするな!

と叱られました。

それに高熱を出しているとはいえ、一般的に知られている肺炎よりもマイコプラズマ肺炎は軽いらしく、最初は入院させてくれそうになかったのです。
あまり無理を言うタイプではないと思っているのですが、目の前の先生に頼み込んで、何とか入院することを許していただけました。

「お母さん、赤ちゃん連れて大変じゃないですか?」

と言われたのですが、もうその頃は「肺炎」という言葉に、「娘を肺炎にさせてしまった。」という罪悪感と申し訳なさでいっぱいで、とにかく娘が心配で心配で、頼んだのでした。

先生の御許可をいただいて、すぐに夫に電話をし、息子を私立の保育園に預ける手配をしました。
夫が来るまですべてを整えて、後はお願いをするばかりにしていました。

その頃、夫の会社の集合住宅に住んでいたのですが、他の奥さんのおっしゃったことに端を発して、人間関係的なことに巻き込まれて、誰かに協力をお願いすることもできませんでした。また、夫も他の人とお付き合いすることをあまり快くは思っていなかったこともありました。

実家の母はその二年前に股関節の置換手術をしていましたからとても手伝ってもらえる状態ではありませんでしたし、婚家のお義母さんは、妹さんに、

あんた、行ってあげんでいいがけ?

と言われて、

私、飛行機に乗って東京行ってしまったらどうするん?

と返したとのことでした。
そもそもそんなことを期待してもおらず、誰かが来てくれるとも思っていませんでした。

なぜかお産も一人っきりででしたし、こういうときもなぜか誰かを頼るという発想もないのです。

それでも、お知り合いのいろんな人がお見舞いに来てくださることに驚いていたくらいです。

思い出があるので、この話になるとあれこれあれこれ書いてしまっていますが、話は全く違います。

母親の勘と言うものは当たるもので、最初、4~5日と言われていたのに、娘が良くなるまで10日も掛かってしまいました。
二日目には息子が熱を出し、一緒に入院させていただけることになり、夫の負担が軽くなってホッとしたのを覚えています。
さすがに会社帰りに息子を保育園まで迎えに行き、その足で病院に来て、息子を連れて帰ってからご飯を食べ、また翌朝息子を保育園まで送って行く、というのは負担が大きいだろうと思っていたのです。

10日ほど、病室で子どもたち二人の面倒を見、毎晩病室の床に茣蓙を敷いて、その上に布団を敷いて眠っていたのです。
若い研修医が、不届きものだったこともあり(ほかの人の証言もあり、私はその後怒っていました。違う日に受診しに行って、上の先生を「この人か、あんな医者を野放しにしているのは・・・。」と厳しい顔をしてしまったのまで覚えています。)、看護師さんにも気を遣い、精神的にも肉体的にもクタクタになっていたのです。

目の前の娘が心配だし、夫には胸がふさがれるような叱られ方をして、自覚のなさを責められるし、言われてみればそれもそうだし、主治医の医師は変な人だし、女性である看護師さんも怖いし(深夜に控室で患者の悪口を言っているのを耳にしてしまった。)、その直前、社宅ではもめ事があったし、誰にも頼れず、本当にくたびれ切っていました。非礼であることは承知で、挨拶もせずに帰ってきました。それほど変な入院だったのです。

退院して数日してから、3日おきに高熱を出すという日が続いていました。
クリスマスを挟んでの入院で、退院してから年明けに自分のことで受診することになりました。

いきなり内科の先生に怒られて、

こんな、しょっちゅう、高熱出して、何か大きな病気があると思うよ。リウマチとかね。なんか症状出てない?

と言われ、リウマチの大変さを知っているので、びっくりして、

先生、先日から子どもたちの入院に付き合ってたんで、それで疲れただけではないんでしょうか?

と、自分がそんな大きな病気になるはずがない信念をもって、お尋ねすると、

微熱くらいだったら疲れってこともあるだろうけど、こんな高熱!

とめちゃくちゃ怒られ、血液検査の結果を見て、

ああ、やっぱりね!抗核抗体が高い。これは膠原病のときに出てくる値なんだけど。

と言われて、奈落の底に陥れられたという気分になりました。たしかにいつもはそうではなかった手の指の関節がかすかに痛むようになっていたのです。

だいたい、私は誰かに世話される人間ではないのです。世話してなんぼの人間です。家付き娘のおばあちゃんのいる商家に生まれておきながら、なぜかその後の人生は(どの後?)、「三界に家なし」という女性の人生について語られた言葉通りのような人生を送ってきました。なぜそうなるのかはいまだに不思議ですが、おばあちゃんと話していると、いつも不思議な思いがしてきたものでした。自分が病気になるなんて隙間はそれまでの人生にも、その頃にも、その後にもないと思っていたから、病気そのものよりも、夫の世話や子供たちのことができなくなることの方が重要だったのでした。

しっかり話を聞いて来ようと思って次に行った時だったでしょうか?

先生が、

もう症状出てるからね。様子を見ていくしか・・・。膠原病には治療法がないからね。対症療法しか。

とおっしゃって、

そんなこと言われて、まだ子ども小さいのに、どうしろって言うんですか!?

と先生に言ってみれば八つ当たりしてしまいました。たしか泣いていなかったかと思います。

子どもたちの掛かりつけの先生が、北大病院に紹介状を書いてくださり、検査をしてもらうことになりました。そのいきさつは忘れたのだけれど、小さな息子を連れて行ったのは、その次の年の秋でした。

問診してくれた若くて優しくて楽しい研修医の先生とは違って、膠原病の先生はめちゃくちゃ怖そうでした。

でも、

今、何かできるわけでもないだろうから。それに・・・、この調子では何もできないし・・・。

とチラッと息子の方に目をお遣りになりました。そのとき、やんちゃな息子が診察室の椅子をくるくる回していたのです。何十人もの高校生のあれこれを見てきていたので、小さい子どもの少々のいたずらなど、私は放置してしまうらしいのです。きっとあちこちで顰蹙を買ってきたことだろうという自覚はあります。高校生のすることはもっと大変だし、少々のことには慣れてしまっていて、自分の小さな息子のやんちゃな姿くらい、自分にとってはどうってことなくても、先生にとってはとんでもないことだったことでしょう。

一応検査して、それで何ともなかったら、無罪放免と言うことで・・・。

と言ってくださり、怖いと思った先生は、私が保険証を忘れたことについて看護師さん相手に、何とか次の機会に保険証を持ってくることにしてもらえないかと交渉してくださるほどの親切な温かい先生だったのです。命を預かっている先生が、優しいばかりではどうしようもないんだということを実感したような気がしたのでした。

今思ったのだけれど、考えてみれば、大学病院で、きっと患者さんも固ーくなって診察室に入ってくるだろうに、失礼この上ないけれど、そう、よくも怒鳴られたりしなかったと思うけれど、若い母親もその小さい息子も、大学病院のそのほかに誰もいない個室で、寛いでいるわけでは全くないけど、無防備に先生に話していたのでしょう。子どもにそんなことをさせて平気でいる、しかもその子どもも怖がりもしないで、二人とも間抜けと言うか、そのアホさに呆れて怒る気も失せておられたのだろうと思います。どこか呑気と言うか、これって、今考えると、正直呆れ果てるし、若かったとも思うけど、私のことだから、どうせ、今でも同じようなことでもしているのだろうとは思っています。
その図を思い浮かべるだけでも本当にとんでもない奴です。

一回地下鉄で帰って、幼稚園から戻ってきた娘も今度は一緒に、その日、家から北大病院まで二往復するという間抜けなことをする羽目になりました。

どうせ、検査結果に何か出てくるんだろうと思っていたのです。雨の降る日で、子どもたちはどうなるのかと心細さも増していました。

その次に検査結果をもらいに行ったとき、心配していたのとは違って、

異状なかったんだよねえ。200ほど呼び出したけど、何にもなかったんだよね。これからはときどき血液検査をして調べるようにして・・・。

とのことで、本当に私は無罪放免になりました。
検査結果をみんないただいたけれど、本当にたくさんたくさんの項目を調べていただいたのでした。

調べていただくというのは大切なことだと思います。はっきりするから。
文系で、数字よりも、感覚を信じるところのある私ですが、最近母を病院に連れていき、便乗して割にマメに検査をしていただいていると、そのことが実感できるのです。
数字に出れば、気を付けようとも思えます。

それからの私は、膠原病について本を読んだり、記事を読んだりして、もしものときに備えるようにしてきました。
膠原病に罹っておられる人に関心をもつようになったし、母などに何かあったときも、もしかしたら?と早めに思うようになりました。

対症療法しかないと言われた膠原病についての記事を読んでも、どこか当時の語り口とは違って、早めに気付けば・・・、と早期発見すれば、何とかなるという希望のある表現になってきているように思います。
ただ当時、読んだ本に気になることが書いてあったけれど、精神的なものもかなり影響するらしく、お姑さんの嫁いびりがひどくなると発症するというようなものでもあるらしいのです。

別にそのことでけん制した事実などありませんが(笑)、それでもそういうことを知っているというだけでも大きいと思うのです。

それに、富山に帰ってきたからも折に触れ、検査をしてもらってきたけれど、今のところ私は発症していません。
昨年、受験指導が終わって一息ついたころ、ピアノを弾いていて、あれ?と思ったことがあったときには、やっぱり検査をしてもらったけれど大丈夫でした。

知っていれば気を付けることができます。予防することもできます。

ドラマの力って侮れないものだと思います。
そういう病気があることが認知され、もしも自分にそういうことが起こってきたときにどうすればいいのかということの予備知識にもなります。

私のように、ちょっと疑われただけでも、もう数十年、その病気と闘ってきたわけではありませんが、ずっと意識して生きてくることになったのですから。

公開:2025/05/19 最終更新:2025/05/19